(この記事は、2021年2月1日に配信しました第315号のメールマガジンに掲載されたものです)
今回の「たのしい音楽小話」は、バッハの職人気質のお話です。
先日、「ららら♪クラシック」というテレビ番組を見ました。司会を務める俳優の高橋克典さんが、作曲家でピアニストの加藤昌則さんをゲストに迎えて、バッハの面白さを楽譜の中から読み解くという番組です。
楽譜の中に、バッハの職人気質が表れているというのです。
番組では、洗練された技術が楽譜に現れている「卓越した技術」、次の世代に技術を伝えるべく楽譜にメッセーズが込められている「技術の伝承」、手を抜かずにこだわりぬいて作曲する「こだわりぬく姿勢」の3つキーワードで解説をしていました。
高橋さんが、「興味深いですね。楽譜から作曲家の気質まで読み取ることができるか?」と発言されると、作曲家の加藤さんが、「楽譜だからこそ、読み取れるのです。楽譜を読めない方も、デザインのように楽譜を見ていただいて、感じていただけたら」と話します。
最初に、「卓越した技術」の解説ですが、一枚の肖像画を紹介していました。バッハの肖像画では大変有名な絵画で、バッハはボタンのたくさん付いた黒いジャケットを着て、右手に楽譜を持っています。
こちらのサイトで、この肖像画を確認できます。
バッハは、1747年 音楽家たちのコミュニティである「音楽学術協会」に入会しようと決意します。そこには、当時ヨーロッパの音楽文化をけん引していたテレマンやヘンデルが所属していました。超エリートしか入会が許されず、音楽家として名声があり、なおかつ音楽の根本的な理論に通じている必要がありました。入会するには、作曲した楽譜を提出する必要がありましたが、バッハは、自身が持っている技術をつぎ込んで作曲し、見事に入会が許されます。
この有名な肖像画は、「音楽学術協会」への入会が決まった記念に描かれたものです。手に持っている楽譜は、入会する時に提出した「6声の3重カノン」の楽譜です。五線を3段使用した3パートからなる音楽で、わずか3小節だけの楽譜です。おそらく誰が見ても簡素な感じがする楽譜ですが、これが楽譜の全てで、これだけで完璧な作品なのだそうです。超エリートしか入会できない協会に提出する作品としては、たったこれだけ?という印象しかありません。
番組では、繰り返し記号の付いた2、3小節目のみを、実際に3人で演奏しました。
高橋さんが、「楽譜通りに演奏していたことは分かったのですが、これがスゴイ技術なのですか?」と不思議そうに聞きますと、加藤さんがわかりやすく解説をされました。実際には6人で演奏する曲なので、同じ楽譜をもう一つ用意して縦に並べ、「カノン」という輪唱の曲なので、1小節ずらして置きます。3つの声部(パート)がそれぞれずれてカノン(輪唱)しているので、3重カノンになるのだそうです。
この6人での演奏を実際に聴いた高橋さんが、「聴いたことがあるようなバッハの音楽ですね」と話していましたが、アナウンサーが思わず、「これで完成なんですよね?」と腑に落ちない感じで話していました。加藤さんが、「でも、どうですかね。超エリートしか入れないようなところに、ただコピペして1小節ずらしただけで入れるなら、簡単すぎますよね。僕も入りたいなあ」と話しつつ、楽譜の解説の続きが始まりました。
2、3小節目の音符を裏返しに読んでいき、3人は楽譜通り、残りの3人は楽譜を裏返したように音を読んで演奏しますと、ずっと聴き続けられるような美しい音楽になっていきました。
「肖像画の中に描かれていた楽譜に、こんな秘密があったとは」と、高橋さんも驚かれていました。
「技術の伝承」の解説では、職人が弟子に技を伝えていくように、バッハも技術の伝承に力を入れていたのだそうです。長男のウィリアム・フリーデマンへ、楽譜を使って技術を伝えていました。その一つが、インベンション第1番です。インベンションは、発想という意味で、バッハは「良い音楽の発想を身に着け、それを巧みに展開する手引き」を伝えたかったようです。インベンションで技を身に着けたバッハの息子たちは、それを次の世代に伝えていきました。カールフィリップ・エマヌエル・バッハは、ベートーヴェンに、ヨハン・クリスティアン・バッハは、モーツァルトに伝えていったのだそうです。
バッハは、「音楽を学ぶ人は、まずインベンションを勉強しなさい」と言っていたそうです。インベンションでバッハが行った技術の伝承とは、どのようなものなのか、加藤さんが解説していました。
良い音楽の発想を展開する力とは、分かりやすく話すと、小さな一つのメロディーだけを使って曲全体を作ってしまう事なのだそでうす。
インベンション第1番の楽譜を見ますと、冒頭部分に16分休符の後、16分音符でドレミファレミドが書かれていて、これこそがバッハが伝えようとしていた発想なのだそうです。このたった7つの音のフレーズが、この曲全体を支配しているという話をしますと、「これだけを?全体を?」と疑問の声が上がっていました。
番組では、この箇所全てにチェックが入った楽譜を写していましたが、実に37回も出てきています。22小節の曲の中に、小節数よりも多くの同じ形のフレーズが出てきているなんて、凄い技ですね。この限られた一つの素材だけで、音楽を作っていく事の素晴らしさを、バッハは伝えたかったのです。それは、今でもピアノや作曲の勉強としても使われています。いかに、バッハが技術の伝承を大切にしていたかがわかりますね。
次は、「こだわりぬく姿勢」の話です。バッハは、38歳の時に教会の音楽監督に就任しました。信心深いバッハは、自分の音楽によって神を身近に感じ、そして、音楽を心から楽しんでほしいと思っていました。そして、30分もの長さの教会カンタータを、週に1回の礼拝に合わせて、新しく作り直していました。たいていは、型にはめて簡単に作り、練習して歌うようですが、バッハはそれでは満足せず、常に全力投球で新しいサウンドや新しい組み合わせを試しました。それが自分の義務でもあり、そしてチャンスでもあると考えていたようです。弟子たちのレッスン、音楽学校の授業、礼拝のリハーサルと多忙を極めていましたが、個性あふれるカンタータを作曲し続けました。
番組では、バッハの一番有名なカンタータである147番のカンタータ「主よ、人の望みの喜びよ」を紹介していました。まずは、元の讃美歌を一節演奏します。「まあ、これだけでも美しいですけれど、賛美歌っていうだけの音楽ですよね」という感想の後に、解説が続きました。
元々の讃美歌のフレーズと同じタイミングで、バッハは新しいフレーズを付け加えていて、とてもカラフルで華やかな音楽に様変わりしています。それだけではなく、また同じタイミングで、少し動きを加えるような新しいメロディーも作曲しています。このフレーズは、目立つものではなく、いわば隠し味のようなものですが、有るのと無いのとでは雲泥の差があります。このような見えないところにもこだわって、毎週作曲をしていました。
これら全てを同時に演奏すると、元の讃美歌からは考えられないくらい華やかな音楽になり、これを知っていますと、逆に元の讃美歌だけでは物足りなくなってしまいそうです。
バッハの作品は、実際に弾いたことがある方も多いかもしれませんが、このようにじっくりと楽譜を見て、その奥深さを感じることは、意外に少ないかもしれません。楽譜を読む事の大切さを改めて感じました。
(この記事は、2020年12月21日に配信しました第312号のメールマガジンに掲載されたものです)
今回の「たのしい音楽小話」は、前回の続きで、ベートーヴェンの難聴と作品作りについてのお話です。前回の記事は、以下で読むことができます。
ベートーヴェンは、難聴のあらゆる治療法を試しますが、良くなるどころか日に日に悪化していき、遂に自殺を考えるまで追い詰められます。
「僕は絶望し、自殺することすら考えた。しかし、芸術への思いがそれを引き止めた。僕は、自分に課せられている使命を果たすまで、この世を去ることはできない」と、弟に手紙を書いています。
当時、「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命を指揮していたナポレオンの姿から刺激を受け、尊敬もしていたそうです。ナポレオンに捧げるため、「交響曲第3番英雄」を書き、彼の代表作の一つになりました。その後、「傑作の森」と言われる奇跡の10年を迎えます。
絶望から這い上がって、傑作を生み出していくという不屈の精神が、ベートーヴェンの凄いところですね。
ピアニストの清塚さんも、「音楽家として、難聴は命を取られた事に近い。ベートーヴェンは、難聴になるまで、むしろピアニストとしての方が売れていた。それが難聴でピアニストは無理となり、作曲家として生きていくという別の道を見つけたことで大作を生み出している」と話していました。
次は、ベートーヴェンとその前の時代に活躍したモーツァルトの音楽の比較です。
「モーツァルトは、貴族のパーティ─や食事に合うような、軽い感じの音楽を作曲していて…」と、清塚さんがモーツァルトのトルコ行進曲を演奏し、ゲストの方も、「軽い音楽ですよね」「聴きながらお食事できますよね」と話していました。次に、清塚さんがベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」の冒頭部分を弾き出した途端、ゲストの方々が苦笑して、「食欲がわかないですよね」「暗いですよね」と口々に話していました。
「ベートーヴェンは、食事に合うような音楽を書く気はさらさらなくて、広い劇場で多くの人々に自分のストレスや不安、苦悩などを込めた音楽を聴いてほしいと思っていたので、モーツァルトとは音楽作りのコンセプトが全然違うんですよね」と話していました。
ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」も取り上げていて、第1楽章の冒頭部分を弾きながら、「タタタタという一つの小さなパーツであるリズムだけで、ほぼ作られている曲で、このリズム独特の切迫感が必ず音楽の中のどこかに鳴っている状態の音楽です。このような手法はベートーヴェンが編み出したもので、ベートーヴェン以降、この手法を用いて(1つのパーツで)お城のような音楽を作った作曲家は現れていない」と話しますと、「怖いおじさんというイメージから、魅力的な人に見えてきましたよね」「革命児ですよね」と、ゲストの驚きの声が上がっていました。
交響曲第6番「田園」やベートーヴェン自身が最高の出来と評したピアノソナタ第23番「熱情」など、傑作を次々と生み出した時に使用していた補聴器なども紹介されていました。ヘッドセット型から、大きいものは、マグカップよりもはるかに大きなラッパが付いたサイズのものまでありました。難聴の初期のものは小さく、難聴が酷くなるにつれてラッパ部分のサイズは大きくなっていきました。大きなサイズのものは、手に持って仲間の声を聴くには重いので、ピアノの上に置いて使用していたそうです。
ベートーヴェンが難聴になって引きこもっていたハイリゲンシュタットの家は、現在「ベートーヴェン ミュージアム」になっていますが、そこにはベートーヴェンが使用していたボックス付きのピアノがあります。茶色いグランドピアノで、蓋が閉められピアノの弦は全く見えませんが、譜面台がある場所の一部が切り取られていて、そこにボックスが付けられています。作曲や演奏をする時は、このボックスに頭を入れて音を聴いていたのだそうです。難聴を受け入れてからのベートーヴェンは、このような涙ぐましい努力をしていました。
ベートーヴェンが40代半ばになると、音はほとんど聞こえなくなってしまいます。会話も困難となり、コミュニケーション手段として筆談をしていました。その筆談帳が、400冊以上もありました。話すことはできたので、相手の質問のみ書かれています。家政婦に頼んだ買い物の金額など、買った品物や価格などが事細かに書かれていました。
ベートーヴェンの曲を分析をすると、難聴の進行に合わせて、高音部の使用頻度が減ってきて、聴き取りやすい低音と中音を使うようになっていきます。
耳が聞こえなくても絶対音感があれば、作曲は可能ですが、ベートーヴェンは当時としては珍しく、楽譜に細かく具体的な演奏の指示を書き込み、意図する曲のイメージを演奏者に正確に伝えていました。そして、本当に楽譜通りに演奏されているか自分で確かめていたのです。音楽は自分の感情を表現するもので、確実に人々に届けたいと思っていたのでしょう。
50歳で黄疸になり、3ヵ月も寝込んでしまいます。毎日ワインを1本は飲んでいたそうで、それが原因でアルコール性肝硬変になってしまったと考えられます。音楽家として致命的な難聴に苦しみながら作曲活動をしていたわけですから、飲まずにはいられない心境だったのでしょう。
黄疸は、当時の医学では治せない病気で、死刑宣告を受けたようなものですが、その頃、王侯貴族が復権しつつあり、自由と平等を求める市民が、また各地で弾圧にさらされていました。
自分に残された時間はそんなになく、自分が思っていた「世の中は、こうあってほしい。世界は、こうあるべきだ」というメッセージを、最後に形にして、音楽を市民の元に取り戻すとばかりに、交響曲第9番の作曲に着手します。ドイツの詩人シラーが書いた「歓喜に寄せて」の一節「時の流れが厳しく分かつものを、喜びの神秘的な力が再び結ぶ」を使用しています。
このドイツ語の「喜び」という意味の「フライデ」のよく似た綴りで「フライハイト」という言葉があり、自由という意味なのだそうです。シラーは、もともと「フライハイト」(自由)という言葉を使用したかったそうですが、当時の政府の検閲を恐れて「喜び」という言葉に替えたのだそうです。そのため、このシラーの一説は、自由の力が身分や階級の差をなくすという意味になり、ベートーヴェンが第九に込めた思いとなります。
この思いを人々に届けるため、交響曲に合唱を取り入れるという大変画期的な作品となりました。人類の理想を、音だけでなく具体的な言葉を伴うものにしたのです。
しかし、この合唱の練習が始まると、歌手たちは不満を爆発させ、「あなたの作る歌は、発声器官への拷問だ」と言い始めます。第九を聴いてお分かりかもしれませんが、ソプラノの高音がものすごく高く、悲鳴に近いもので、しかもずっと長く伸ばさなければなりません。真ん中のドからドレミ…と数えてラがありますが、その1オクターブ高いラを、8小節くらい伸ばすのですから、不満が出るのは当たり前ですね。
この部分の歌詞は「全世界に」という部分にあたり、自由の力が身分や階級の差をなくし、全世界に広がってほしいというメッセージを伝えるため、人間の肉体の限界に挑戦している部分でもあり、また難聴だからこそ理想通りに書くことができた音とも言えます。
耳が完全に聴こえなくなり、心に耳を傾けて高音の使用が復活しますが、それがベートーヴェンの音楽を豊かにし、不朽の名作を生み出していったのです。
ゲストの方々は、「年末になると、なんで第九ばっかりやっているのかと疑問に思っていたけど、今日初めて意味が分かった」「中学生の時に第九を歌ったことがあり、貧血を起こしていた人が何人もいて、なんて体力のいる歌なんだろうと思っていた」と話していました。
ピアニストの清塚さんも、「第九は、好きとか嫌いとかを言ってはいけない曲で、音楽家というより人類の到達点の一つとも言える」と話していて、ゲストの方も共感されていました。
第九の聴きどころについて、有名な歌の部分はサビが出てくるまでに、約1時間かかるという話をされていて、ゲストの方々は、「え~、そうなんだ。じゃあ我々はサビから聴いているわけですね。じゃあ、第九の最初の方を聴いたら第九だってわからないわけですね」「サビから始まるものだと思っていた」と口々に話していました。
清塚さんが演奏を交えながら、「有名な歌のメロディーも、ちょっと出てきては消えて、高さが変わって出てきてと、ずっとお預けを食らっていて、じらされた上に、フレーズの最初の方で終わってしまったリして、来る?来ない?という状態があり、その後暗くなって、いよいよ来るぞ来るぞという状態になって、最後のフリの後に間髪入れずに有名な歌の部分が出てきて鳥肌が立つので、1時間の前振りに耐えた後の、このオチは最高」と話していました。
そして、「音楽家にとって、ベートーヴェンは尊敬を超えてある種コンプレックスを感じるもので、ずっとベートーヴェンが付きまとっていて、何かを生み出しても、ベートーヴェンがあの作品でやっているよねと、何をやってもベートーヴェンにやられてしまう。ベートーヴェンがいなきゃよかったのにとさえ思う(笑)。でも、彼が切り開いてくれて、音楽の時代を100年は早めてくれたおかげで、我々はコンサートが出来ているので感謝したい」と話して、番組は終わりました。
作曲家の人となりを深く知ることで、その音楽も深く知ることができますから、とても良いきっかけになりました。
(この記事は、2020年12月7日に配信しました第311号のメールマガジンに掲載されたものです)
今回の「たのしい音楽小話」は、ベートーヴェンの難聴と作品作りについてのお話です。
今年は、クラシック音楽の世界では、ベートーヴェン生誕250年のメモリアルイヤーです。本来なら、ベートーヴェンの話題で盛り上るはずですが、新型コロナウイルスの影響で、コンサートどころか外出自粛が続きました。しかし、ここへ来て Go To イベントの効果もあるのか、コンサートも少しずつ開催されるようになり、メモリアルイヤーにちなんだ話題も聞かれるようになってきました。
ベートーヴェンは、偉大な音楽家の一人です。あの怖そうな肖像画、ソソソ♭ミーという大変印象的なメロディーの「運命」、ピアノ曲「エリーゼのために」、難聴を乗り越えて作品を生み出した作曲家など、誰もが知っている事ばかりで、いかに世の中に広く知られているのかがわかります。
先日は、テレビで「偉人たちの健康診断 ベートーヴェン 第9誕生!難聴との闘い」という番組が放送されていました。生徒さんの中にも、ご覧になった方がおられました。
ベートーヴェンを難聴というキーワードから健康診断していく番組で、関根勤さん、はいだしょうこさん、カンニング竹山さん、ピアニストの清塚信也さんが出演していました。
最初に、名曲「エリーゼのために」について、演奏を交えながら清塚さんが解説されました。エリーゼは、本当はテレーゼという名前で、ベートーヴェンのピアノの弟子であり、年下の貴族の娘です。「エリーゼのために」は、彼女に捧げた恋文のような曲だったのに、テレーゼの死後、いつの間にか出版されてしまった事を話すと、ゲストの皆さんは、「ラブレターを後に誰かが勝手に出版しちゃったって事でしょ?」と、驚きの声を上げていました。
ベートーヴェンは、1770年にドイツの宮廷音楽家の家に生まれました。ベートーヴェンの生家があるドイツのボンでは、街のいたるところでベートーヴェンのグッズが売られ、信号機も青信号にベートーヴェンの顔がデザインされています。ベートーヴェンの生家は、現在ベートーヴェンハウスという博物館になっています。
ベートーヴェンは、宮廷音楽家の父から音楽の英才教育を受けました。7歳で演奏会を開くほどの腕前で、番組ではその様子を描いた絵が紹介されていました。貴族たちの前で、ピアノの両脇に燭台を乗せて、まだ小さいため床に足が届かず、椅子にちょこんと座りピアノを弾いている姿は、なんとも可愛らしいものです。
12歳の時には自ら曲を作り、13歳で宮廷オルガニストになりました。既に立派な音楽家ですが、いざ宮廷音楽家として仕事を始めますと、息が詰まるようなところだったようです。当時の宮廷音楽家は、命じられるがままに作曲して演奏するのが仕事で、身分も低く召使として扱われていました。
音楽は、宮廷生活を彩るためのもので、1回聴いたら終わりという使い捨てだったそうです。音楽も音楽家も使い捨てで、代りはいくらでもいるという伝統の中で苦しめられた一人が、ベートーヴェンの父ヨハンでした。声楽家として活躍していた宮廷を追われて、酒におぼれていった姿をベートーヴェンは身近に見ていました。
1789年、ベートーヴェンが18歳のときにフランス革命が起こります。富と権力を独占して優雅に暮らしていた貴族の陰で、苦しい生活をしてきた貧しい市民が立ち上がったのです。「全ての人は自由で平等であるべき。国、社会、富を貧しい人の手に取り戻す」というフランス革命の理念は、ベートーヴェンにも大きな影響を与えました。
親友に宛てた手紙には、「僕の芸術は、僕と同じ貧しい人々の運命の改善に捧げられなければならない」と記しています。貴族のための音楽から、市民のための音楽を作ることを決意し、21歳の時に音楽の都ウィーンへと向かいます。
24歳の時にウィーンの音楽出版社と結んだ契約書が残されていますが、楽譜を出版して収入を得るという当時ではとても斬新な方法を取りました。多数の出版社に楽譜を持っていき、例えば1社に半年だけ出版の権利を与え、その後は他の出版社に持っていき収入を得ることで、音楽家は自立できないという慣習を変えたのです。現在では、ごく一般的に行われている事ですが、遡ればベートーヴェンが元祖なのかもしれません。
演奏会の在り方にも、革命を起こします。当時の演奏会のポスターを見ますと、料金表が書かれていますが、最高で約5万円、一番安い価格で約3,500円と、座席によって8段階もの価格差を付けて販売していました。極端に安い席もたくさん用意されていたそうで、お金を払えば身分に関係なく演奏が聴けるようにしたのです。これも、現在では当たり前ですが、当時は貴族のための音楽ですから、演奏会は宮廷で行われチケットも不要でした。ベートーヴェンは、自分の音楽を広く一般市民に聴いてもらいたいと思い、音楽はみんなで聴けるものだという流れを作ったのです。
この革命の精神は、音楽の創作にも表れます。例えばピアノソナタ「悲愴」という作品は、ベートーヴェン自身が付けた曲名ですが、フランス語の本来の意味では「激情」になるのだそうです。ベートーヴェンの3大ピアノソナタとして知られている作品で、弾いたことがある方もいらっしゃるかと思いますが、私も思い返すと、悲愴という言葉のイメージとは裏腹に、とても激しい感じの曲で違和感を感じていた覚えがあります。当時の一般的なソナタは、娯楽的な作品が多かったわけですが、この作品はベートーヴェンの激しい感情が色濃く表現された新しい音楽と言えます。宮廷で捕らわれの身となっていた音楽を、自由にしたいと思っていたのでしょう。
しかし、この頃から難聴に苦しみ始めます。友人への手紙に、「耳が一日中、ぶんぶんざわざわ言っている」「話し声は聞こえるのに、意味がさっぱり分からない」と書いています。難聴は、聞こえづらいとか、全く聞こえない症状だと思っていましたが、このような症状もある事を知り驚きました。
「僕は、もう何度も創造主を呪った。僕の体で最も大切な部分、聴覚がひどく衰えてしまったのだ。僕の耳のことは絶対に秘密にして、どんな人にも話さないでほしい」と、他の友人にも手紙を書いています。音楽に関わっている身としては、この心情は大変よくわかります。難聴を隠すために、一切の人付き合いを隠して、ハイリゲンシュタットという郊外の町に引きこもってしまいます。
ベートーヴェンは、なぜ難聴になってしまったのでしょうか。
近年、ウィーン大学病理学解剖学博物館の書庫に、ベートーヴェンの解剖結果の記録が残されていることが分かりました。ベートーヴェンが亡くなった翌日に、ベートーヴェンの自宅で解剖が行われたようです。
これまで難聴は、耳硬化症という耳の中の耳小骨が正しく動かなくなることで起きる病気と考えられていました。しかし、ベートーヴェンの解剖結果の記録には、耳小骨について書かれていません。
現在の難聴医療の専門家の意見では、高い音が聞こえづらくなると、子音が聴き取れなくなるため、例えば「あかさたな」と言っていても、全てが「あ」と聞こえてしまうのだそうです。音は聞こえるが言葉がわかりにくいというベートーヴェンの症状は、鼓膜のもっと内側にある内耳の病気だったと考えられ、現代医学では「若年発症型両側性感音難聴」という病気と疑われます。
40歳未満で発症する難聴で、日本では厚生労働省が難病指定していて、患者数は国内で約4,000人いると言われています。内耳が壊れる遺伝子を、先天的に持っていることが原因と明らかになっているそうです。現在では、人工内耳が開発されていますが、それ以前は有効な治療法がありませんでした。
次回に続きます。
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