(この記事は、第289号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回の「たのしい音楽小話」は、ヤマハのピアノ工場見学のお話です。

年末年始の休みの間に、ヤマハのピアノ工場を見学するテレビ番組が放送されました。この工場は、私も以前訪れたことがあり、懐かしい気持ちで見てみました。(以前訪れたときの記事)

番組では、「ピアノ工場を楽しむ休日」と題して、司会者とギタリストの村治佳織さん、芸人の古坂大魔王さん(ピコ太郎)、ピアニストの藤田真央さんが、グランドピアノができるまでの工程を、工場長の案内で見学していました。

ヤマハのピアノ工場は、東京ドーム約5個分の敷地面積があり、約600人の従業員がピアノ制作に関わっています。

司会者が藤田さんに、「こちらのピアノ工場に、いらしたことはありますか?」と聞かれ、「同じ掛川市にある…、言っていいのかわからないのですが、河合楽器さんの方には…」と遠慮がちに答えると、他のゲスト2人が大爆笑していました。

工場に入って、まず最初に見学したのは、ピアノのカットモデル(断面模型)です。音の出る仕組みが、見えるようになっています。このようなものは何回も見ていますが、何度見ても面白い構造で、よく考えて作られていると感心してしまいます。

よく、小さいお子様がレッスンでグランドピアノを弾くと、中からハンマーがピコピコ飛び出て動く様子を興味深そうに見ているのですが、そのようなタイミングで、このカットモデルを見たら、もっともっとピアノに興味を持ち、楽しくピアノを弾くのではないのかと思います。

ピアノは、この音の出る仕組みを、88鍵全てに用意し、ピアノ1台で、約8000点の部品が使われているので、ピアノの制作は、時間と手間が大変かかる作業になります。

このカットモデルを使用して、藤田さんが、ドビュッシーの「小さな黒人」を弾いたのですが、少し弾くと鍵盤が足りなくなってしまい、また大爆笑となりましたが、古坂大魔王さんが、この演奏の様子を「ポップコーンが出来上がっている感じ」と話していて、とてもピッタリな表現だと感心してしまいました。

グランドピアノは複雑な形状をしているので、そのための部品を作るのも難しく、自社でその工作機械から作っているのだそうです。機械の技術と職人の技術、その両方を融合してピアノを制作しているという事ですね。

ボディー作りの工程では、工場中に木材の香りがしています。薄くて長い板を、機械で何枚も貼り合わせ、ミルフィーユのような層にして強度を高めます。この板を、グランドピアノの外枠のカーブしている部分に使用しますが、職人2人が機械を使用してピアノの型に巻き付けていき、あの独特のカーブを作っていきます。

そのままの形で放置して木をなじませ、外側の板(側板)が完成しますが、映像では、工場内にずらっと、この側板が並んでいて、なかなか圧巻の光景でした。

ちなみに、グランドピアノのあの独特のカーブは、ピアノの高音部の弦が短いためにできた形で、ゲストの人も、「初めて、ピアノのあの形の理由を知った」と感心していました。

一旦工場の建物の外に出ると、地面にはレールが敷かれていて、踏切まであります。工場の建物から建物へピアノを無人で移動させている様子が映し出されていました。生で見たら面白そうですね。

張弦の工程では、職人さんが1本ずつ手作業で、230本全ての弦を張っていきます。冬場でも、扇風機をつけて作業するほどの重労働になります。重労働で汗をかくと、ピアノの弦がサビてしまいかねないので、1人1台の扇風機がつけられているのだそうです。

この作業をしている職人さんと、藤田さんは同い年で、「同期じゃないですかー」と声をかけていました。作る人と弾く人、立場は違っても同じピアノに関わていることが嬉しいのでしょう。

藤田さんが、「どの位置の弦が好きですか」と質問していて、「中音域が好みで、弦の長さなど、ちょうど気持ちよく張れるから」と職人さんが答えていました。2人のやり取りを聞いていたゲストが、「マニアックだなあ。そんな意見、聞いたことないなあ」と面白そうに話していて、私も思わず笑ってしまいました。

鍵盤の調整の工程では、鍵盤の動きがスムーズになるように作業をしているところでした。

鍵盤は、分厚い大きな一枚板を、短冊状に切って作られていますが、鍵盤を固定する穴の大きさを、ほんの少し広げると鍵盤の動きがスムーズになります。しかし、広げ過ぎるとガタガタとした動きになってしまいます。木によって、硬さや木目が異なるので、機械で同じように開けた穴でも、誤差が生まれてしまうので、職人が手の感覚で調整するのだそうです。正に、匠の技ですね。

職人さんが感じる手の感覚というのは、そっと鍵盤を上げたときに柔らかく、下したときにすっと入るような感覚だそうで、演奏する人が弾きやすいように、柔らかめに調整しているそうです。

音色を作る工程では、整音という音色や響きのバランスを調整します。とても高いスキルが必要な作業で、1人前になるために10年以上かかるそうです。

フェルトを張ったばかりのハンマーは、硬いので、針でつついてほぐし、柔らかくして、豊かな音になるようにします。職人さんが、耳で聴いた音や鍵盤から指に伝わる感覚を頼りに、出荷できるレベルの音なのかをチェックしていました。

整音前と整音後の音を聴き比べるコーナーも放送されていましたが、聴き比べてみますと、やはり整音後の方が角が取れて、金属的な音色ではなく、弾力性のようなものも感じました。

最後に、出来立てのピアノを使って、藤田さんが、シューベルト=リスト作曲の「ウィーンの夜会」を演奏して番組は終わりました。

このようにピアノができる工程を見ますと、多くの職人さんが丹精込めてピアノを作っていることを再認識させられます。これからも、もっともっとピアノを大切に使おうと、改めて思いました。

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謹賀新年 2020


2020年1月6日

明けまして、おめでとうございます。今年も、よろしくお願いします。

今年 2020年も、いろいろな音楽家がメモリアルイヤーを迎えます。

一番代表的な音楽家が、ベートーヴェンです。

1770年にドイツのボンで生まれたベートーヴェンは、 今年生誕250年を迎えます。

普段ピアノを弾いたり、音楽を聴いたりすることの少ない方でも、老若男女すべての方が知っている音楽家といっても過言ではないと思います。

もじゃもじゃ頭に、怖そうな顔をした肖像画もすっかりお馴染みですし、交響曲「運命」の出だし、ソソソミー というフレーズが、とにかくインパクトがあって、一度聴いたら忘れられないものですね。

難聴という、音楽家にとって致命的な障害を抱えて、自殺まで考え、遺書を残すところから立ち上がって復活し、数々の名曲を誕生させた不屈の精神も、人の心を打つのではないかと思います。

一癖も二癖もある性格なので、周囲の人々はちょっと大変だったかもしれませんが、葬儀は国葬で執り行われ、2万人もの人々が参列したことからも、やはり偉大な人物だったことがうかがえます。

ベートーヴェンの家:ヨーロッパ音楽紀行・ウィーン
ベートーヴェン・ピアノ曲 無料楽譜/有料楽譜一覧
ピアノのしらべ:ベートーヴェン作曲ソナタ第14番「月光」
ピアノのしらべ:ベートーヴェン作曲「エリーゼのために」

フランスの作曲家ガブリエル・フォーレは、今年生誕175年を迎えます。

ドビュッシーやラヴェル、サン=サーンスなどと並んで、フランスを代表する作曲家です。フォーレが作曲した「レクイエム」は、モーツァルト、ヴェルディと並んで「3大レクイエム」と呼ばれています。

教会のオルガニストやピアニスト、作曲家として活躍し、パリ音楽院の教授を経て院長として、ラヴェルなど後に活躍をする音楽家を育てました。

あまり知られていませんが、晩年はベートーヴェンと同じく難聴と戦いながら作曲を続けました。

フォーレのお墓:ヨーロッパ音楽紀行・パリ
ピアノのしらべ:フォーレ作曲「シシリエンヌ」

ヨーゼフ・シュトラウスは、今年没後150年になります。

オーストリアの作曲家で、音楽一族の出身です。父 ヨハン・シュトラウス1世は、「ラデツキー行進曲」などの作曲家として知られていますし、兄は、ワルツ王とも呼ばれたヨハン・シュトラウス2世、弟や甥っ子も作曲家です。

幼い頃から音楽の教育を受けていましたが、音楽家になろうとは思っていなかったようで、ウィーンの総合技術専門学校(現在のウィーン工科大学)で機械工学などを学びました。

父が亡くなり、兄も病に倒れ、代役として指揮活動をしたところから、音楽家として生きていく事を決めたようです。兄との合作「ピチカートポルカ」などが有名です。

ドイツの作曲家、パウル・ヒンデミットは、今年生誕125年を迎えます。

ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動をしながら、作曲活動も行い、ベルリン大学で作曲科の教授として指導も行いました。

音楽に、電子楽器を取り入れたことも画期的な事でした。オーケストラで使用している、ほぼすべての楽器のために、それぞれの独奏曲を作曲したことも大きな功績です。

毎年ゴールデンウィーク中に開催されている「ラ・フォル・ジュルネ」では、今年はベートーヴェンがテーマになっていますし、いろいろな場面で、記念年の音楽家の作品に触れる機会が出てくるかと思います。これまで知らなかった作品と出会えるかもしれませんね。

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2020

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(この記事は、第287号のメールマガジンに掲載されたものです)

今回の「たのしい音楽小話」は、「宮廷楽長サリエーリのお菓子な食卓」という本のお話です。

最近は、インターネットでなんでも買える時代で、楽譜もポチッとクリックすると、あっという間に自宅に届くようになりました。随分と便利な世の中になったものです。

それでも、外出がてらに、ちょっと楽譜屋さんに立ち寄ることも少なくありません。買うものは決まっていますから、迷わず手に取るわけですが、そのついでに辺りを見渡しますと、実にいろいろなものが目に付くわけです。

先日も、面白そうな本に出合いました。「宮廷楽長サリエーリのお菓子な食卓」という本で、つるつるとした光沢感のある表紙には、濃厚で高級感がありそうなチョコレートケーキの写真が大きく載っていて、サブタイトルには「時空を超えて味わうオペラ飯」などと書いてあります。手に取らないという選択肢は、ありません。

サリエーリという名前を見て、ピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、モーツァルトの宿敵?!とも言われる音楽家です。

サリエーリの晩年は、モーツァルトを毒殺した疑惑の人として世間から見られ、死後には、ロシアの作家プーシキンが、劇詩「モーツァルトとサリエーリ」で、モーツァルトの音楽の才能に嫉妬した暗殺者として登場させています。

その後、この作品を使いロシア5人組のリムスキー=コルサコフが作曲したオペラ作品や、イギリスの劇作家ピーター・シェファーの戯曲「アマデウス」、そして映画「アマデウス」でも、どれも見事に悪名高い人物に仕立てられてしまっています。

そんな、ダークなイメージのサリエーリですが、本当はどんな人物だったのか、興味深く読んでみました。

サリエーリは、イタリアのベネツィアで生まれ、オペラを40作品も作曲し、ベートーヴェンやシューベルトなども教えていました。この本では、彼の周囲の人々のエピソードと、彼らが実際に食べたものや、食べたと推測される料理、またオペラに登場する料理を多数取り上げています。

サリエーリは、幼い頃から、鍵盤奏者やヴァイオリニストとして活躍していた一番年上の兄から、音楽を習っていました。

教会のお祭りで行われるコンサートを聴くのが、なによりの楽しみで、お兄さんが演奏者としてコンサートに招待され、馬車で向かう際に、馬車の席が空いていると、サリエーリも連れて行ってもらっていました。

しかし、ある時、教会の完成祝いがあり、お兄さんは馬車で向かうのですが、馬車の席には空きがありません。それでも、サリエーリはどうしても行きたくて、両親に無断で、馬車を追いかけて歩いて向かったのです。コンサートが終わり帰宅しますと、両親はカンカンに怒っていました。

父親は、「もし、また無断で外出したら、罰として1週間食事は水とパンだけで、部屋から出られない生活にするぞ」と言います。後になって、サリエーリは、当時の気持ちを次のように話しました。

「こんなにも美しい音楽を聴くことができるのなら、パンと水だけで過ごす罰は、それほど酷いものではない。それに砂糖があれば、パンだけでも他の料理と同様に喜んで食べますよ。これからは、砂糖の入手に励み、備蓄に努めようと思いました。」

サリエーリが、どれほど音楽好きなのか、よくわかるエピソードですが、懲りずにまた(無断で)コンサートへ行こうという執念だけでなく、砂糖への執念も感じます。

サリエーリは、せっせとクローゼットに砂糖を貯め込み、準備に励みます。そして、教会のミサの後、お兄さんが出演するコンサートに歩いて向かうのです。しかし、途中で見つかってしまい、自宅に連れ戻され、鍵のかかった部屋でパンと水だけの生活になりました。

サリエーリは、その部屋で本を読み、クラヴィ─ア(鍵盤楽器)を弾きながら、「自分がやったことは悪くない。教会音楽が好きだという純粋な行動なのだ」と自分に言い聞かせたそうです。

ちなみに、クローゼットに備蓄しておいた砂糖は、妹に話していたため両親の知るところとなり、あらかじめ回収されてしまっていたそうです。

結局は、事の重大さを思い知り、父親の許しを受けて、罰は解かれたそうですが、友人たちに広く知れ渡り、からかわれていたそうです。

その後月日は流れ、大人になったサリエーリは、宮廷楽長の地位につき、50人編成の宮廷楽団を監督し、宮廷オペラのイタリア劇団部門を運営するなど、かなり忙しい日々を送りました。

お弟子さんたちに音楽を指導していましたが、その中にはベートーヴェンやシューベルトもいました。

ベートーヴェンは、慈善演奏会でサリエーリの指揮の下、自作のピアノ協奏曲を演奏し、その後、サリエーリに「3つのヴァイオリンソナタ作品12」を献呈して、正式に弟子になったのだそうです。

一癖も二癖もあるベートーヴェンなので、サリエーリとぶつかることもあり、不仲だったと伝記に書かれることもありますが、コンサートでベートーヴェンが指揮をしている時に、副指揮者を務めるなど、ベートーヴェンに対して助力を惜しまなかったとも言われています。

シューベルトは、サリエーリが晩年に指導した弟子となります。シューベルトは、ウィーン少年合唱団のメンバーだったことでも有名ですが、当時、帝室宮廷礼拝堂の聖歌隊員(ウィーン少年合唱団)の欠員募集の広告が新聞に出たことを知り、シューベルトの父親が息子に応募させたのです。この時の審査員の一人が、サリエーリでした。「ソプラノでは、シューベルトと〇〇が一番良い」と評価をしたそうです。

シューベルトは、見事に合格してメンバーとなりますが、基礎的な教育の他に、歌唱、ピアノ、ヴァイオリンの授業でも常に優秀な成績を修めました。この頃には、管弦楽曲やドイツ語の歌曲を作曲していました。

サリエーリは、シューベルトの作品を数曲見て、彼の才能にいち早く気付きます。

当時、シューベルトは寮生活をしていたのですが、寮の外出禁止の規則を特例で免除してもらい、週に2回サリエーリの自宅でレッスンを受けるようになります。サリエーリは、60歳を超えていて、シューベルトは15歳でしたので、親子以上の年齢差がありました。

シューベルトは、サリエーリに強い尊敬の念を持っていたようで、彼のいろいろなメモに、わざわざ「サリエーリの生徒」と書き記していました。

サリエーリは、「シューベルトは、なんでもできます。オペラでも歌曲でも、四重奏でも、交響曲でも、作曲したいと思ったものは何でも作曲します」と言っていたほど、シューベルトの音楽の才能を高く評価していました。素晴らしい師弟関係ですね。

サリエーリは、時々レモネードを売っている屋外販売店でアイスクリームを買い、シューベルトにごちそうしていたそうです。現在の価格に直すと、500~1500円くらいなので、シューベルトにとっては、贅沢だったのではないでしょうか。

この本には、当時のアイスクリームのレシピも掲載されていますが、かなりシンプルな材料で作られているので、素朴な味わいなのかなと想像しています。これなら、年末年始にお子様と一緒に作れそうです。

サリエーリは、13歳ごろに両親を亡くし、苦労して宮廷楽長にまで上りつめたのですが、周りの人々の助けがあったからこそと思っていたようで、才能溢れる若者には、惜しげもなく、無償で個人レッスンを買って出ています。

フランス王室から勲章も授与され、ウィーンで活動して50周年の時には、お弟子さんが集めって企画した祝賀コンサートが開かれています。こんな人物が、どうしてモーツァルトの毒殺者にされてしまうのか、逆に疑問にさえ思ってしまいました。

歴史の新たな真実を知りながら、当時の食文化も学べる、大変面白い本でした。

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